最近のデート、気にかけるということ、学会発表に向けて、外向性内向性

彼は国際学会発表と投稿論文のまとめとで忙しそうにしている。
当然、この土日も会っていないよ。
このところデートは平日の夕飯のみで、それも私が彼の大学の学食に出向いて食事をして帰るというものだ。
彼はラボに戻り、私はひとり帰路につく。
私は、仕事を一生懸命やっている人が好きだし、仕事と私どっちが大事かなんて迫ったことはない。
割に、会わない期間が長くても大丈夫なほうだ。それだからこれまでの恋愛、長続きしてきたのだとはおもう。


会わなくても、相手のことを考える時間を減らしてはいけないと思う。
考えるというよりも、いつも心のどこかで気にかけているということだ。
例えば美味しいモノを食べたら、今度食べさせたいなとか。
面白いこととか、綺麗なものとか、自分にとっての大事な出来事を、一番に知らせたいという気持ち。
そういう瞬間が減っていくことが、恋愛の終わりを告げているのだけれどもね・・。
前の彼との恋愛では、そういうサインにうまく気づけなくて、というか、一時的な盛り下がりだと信じていて、だらだらしちゃったところもあったなあ。
もっと早く別れていれば、傷が浅くてすんだかもしれない。


まあねー、前の彼とのイザコザを通して、私が恋愛で何を求めているのかがわかったから、やっぱり必要な経験だったんだろな。


そんな私でも、ひとり帰路につく瞬間、彼が背を向けて去っていくのを見送る時は少しシュンとしてしまう。
そんな時は無邪気に早く一緒に住みたいナーとおもう。


さて私自身も、来週学会発表があったりなんぞする。
まあ私の場合、学会と言うよりもお勉強会といった方がよさそうな会だし、日本語だし、
彼と比べれば全然たいしたことはないのですが、初めてのことだし、やっぱり緊張しています。
明日、発表の予行練習をするけどねえー。


先生方は、私のことはやや放置ぎみ(放っておいてもちゃんとやるからいいよね)なところがあるからなあー。
こんな事を書いちゃ可哀想な気もするんだけど、同級生達は、先生達からちょくちょくおしりをたたかれながらなんとかこぎつけたというところがあるわなー。まあ先生達からすると放っておけないでしょう。私が優秀ということではなくて、相対的に、私はまあよくやっているねということになる。
なので、明日もたぶん根本的には直されないんだろうなーという気がしている。そうすると、学会当日にいきなりビシビシな厳しー質問がきたりなんかしちゃわないだろうか??




学部生向けの授業なんかもちまちまとっていたりする私ですが、心理学で、外向性、内向性のことを習いました。
今までは、対人関係のことを指すんだろうナーとか、外向性の人は明るくて内向性のひとは暗いイメージあるなあなどとすごい漠然とした適当な知識をもっていましたが、少し、異なるようでして、対人関係というよりは、物事の処し方といいますか、判断基準というところのようですね。
つまり、「外向性」のひとは、何かを決めるときに、他人とか一般的にいわれていることとかに準拠するが、「内向性」のひとは、自分のなかでいろいろ考えていくということであります。


ほおおおおお
面白い、とおもった。以前から私がいろいろ考えていたことと合致したのである。
吉行淳之介の小説、原色の街から引用

「十年以前前の彼だったら、けっして見合いなどという枠の中に身を置くことを、肯んじはしなかったろう。しかし、現在の彼は、その種の考えを推し進めて身の回りに起こってくる現象に応対していると、結局生きていく余地が無くなってしまい、生きていること自体が間違いだということになってしまうのだ、という場所に行き着いた。それでも尚、彼は何となく生き続けていて、生きることをやめようとはしない。そんなことなら、いっそのこと生きてゆくことにさしさわりになる神経、・・・・・・見合いに反撥したり、一家団欒の写真をとられるのを厭がったり、自分の家系は自分のところで断絶してしまおうと考えたり・・・・・、そんな神経を大きく切り捨てるように努力した方がましではないか、と思ったりしている。そういうことを考えながらあたりを眺めてみると、世の中には神経を切り捨てるなどということを必要とせず、生まれながらに生活というものがオーダーメードの洋服のようにしっくり身に付いている人々が無数に存在していることに、今更のように気付くのだ。彼は目下のところ、そう言う人々を羨ましいものを見るような、と同時に浅ましいものを見るような目で眺めている。」

私が言葉でうまく表現できなかったことをよく書いてくれましたというものだ。
ちょっと長い話になるが、私は中学時代、周りを見下していた時期があった。ちゃらちゃらと楽しげな同級生になじめなかったのだ。
だけどある時、自分は見るからに「いろいろ考えてる人」のような雰囲気を出してるが「ちゃらちゃら」した雰囲気の子だって、実は内面でいろいろ考えているのかもしれないてこと。逆にそういう子のほうが、考える自分を隠し、ちゃらちゃらに振る舞ってるんだから、一枚上手なんじゃないのかって。(よくイジメられなかったなあ)
だから私も、私は賢いぜっみたいな態度はやめて高校大学時代も迎えて、就職もして。
それでまた周りの人といろいろ話していくとやはり、ほんとうに「生まれながらに生活というものがオーダーメードの洋服のようにしっくり身に付いている人々」は無数に存在していたと知る。
つまり、思索的な自分の姿を隠しているわけではなくてほんとうに何にも深いことは考えてない人がいることを知った。
これはいわゆる偏差値的なアタマの善し悪しではなくて、物事への態度というやつです。
いわゆる人生のレールって言うやつにたいして、そういうものだとごく自然に身体の中にとけこませていて、それに沿った生き方に何にも疑問をもってない。一番身近な例が我が妹である。


この「生まれながらに生活というものがオーダーメードの洋服のようにしっくり身に付いている人々」というのがまさに外向性をもつひとたちなんだろーなと、感じてなるほどなるほど、ともうその場でぽんと手をうちたくなるような納得ぶりでした。
私は内向性だなあ・・。ちょっと暗い感じで残念だけど(笑)


そして、前の彼はたぶん、「外向性」なタイプの人だったのだろうと。
いわゆるめっちゃ明るくて活動的という感じじゃ全然ないんだけどね。まあ友達は多かったしね。誰からも嫌われないというすごいキャラだった。それも誰もが嫌がらないような判断基準・行動規範を自然と身につけていたからだろうなあと。
そんな人に、自分が何を感じ考えているのかを開示させようとした私は、すごい無理を押しつけたんだろうなって、今はおもう。
今の彼は私と同じで「内向性」だねー。